底辺大学生留学物語

ブログ名のまんま

語学留学に行くことにした話

大学2年生になった。研究室は落ちた。

世の大学生たちはなんであんなに努力できるのかがわからなかった。テストの前だけ勉強するような半端者はダサいと思ってたし、GPAを高くするためだけの一日を送る奴らは気が狂っていると思ってた。無為に生活することは大学生の特権だから。せめて研究室に入る前までは爛れた生活を続けてたかった。

 

けど、研究室に落ちた。

 

募集の何ヶ月も前から第一希望の研究室に通っても、学会の発表練習に付き合っても、GPAで殴られたら敵わなかった。完全に甘く見てた。そして、彼らがどうして努力していたかを知った。

 

最悪の初体験と投影。

自慢と言う訳ではないが、自分は何かに落ちた事がなかった。高校、大学、資格etc...

正直、高校に落ちていった友達のことを理解できなかったし、これからもそうだと思ってた。そんな矢先に研究室の落選。今まで地頭だけでやってきた、薄っぺらい人生経験と自意識だけが堆積した人型が今の自分。大学生ゆえにそう言うことを理解させられるだけの時間が大量にあった。

高校の友達に電話して傷を舐めてもらって、授業を何コマかサボって。

そうやって少しずつメンタルを取り戻していく。今まで馬鹿にし尽くしてきたメンヘラみたいな作業を淡々と繰り返す。

浅野いにお岡崎京子作品で見てきた人たち。彼らに自分を投影する日が来るなんて思ってもなかった。

 

時間があると突拍子もないことを考えるようになる。

焦りは少しずつ肥大化する。膨れ上がった焦燥は少しのきっかけで爆発する。その方向性が、自分にとっては留学だった。

第一希望に落ちたと言っても募集はまだ続いている。もとより第一希望以外に行く気がなかった自分は、もちろん二の矢三の矢の用意などしていなかった。人気の研究室は一次募集でほぼ定員に達し、選択肢も少なかった。何通も何通もメールを送る。就活もこんな感じなのか、と思いながらただメールを送り続けた。少ない選択肢の中から自分は外国人の教授の研究室に配属が決まった。やりたかったことからは少しズレたが、それでもそれらしい分野の研究室に入る事ができた。ロシア系の教授は日本語を喋れない。これで問題は自分が英語を喋れないことだけだった。

 

消極的決断とは言わせたくなかった。

それからの行動は早かった。親に留学資金の援助を頼み、留学エージェントと面談をし、パスポートをとりに実家に帰る。幸い両親は留学には肯定的だった。国公立とはいえ大学の学費を払ってもらい、研究室にも落ちてしまった立場上、あまり強く出れない自分にとっては有り難かった。

親にお金を出してもらっているのだからこの留学は成功させなければいけない。この選択を消極的判断とは言わせたくない。

 

必要経費なんだろうと思う。

「失敗は成功の友」「失敗できるのは挑んだものだけ」なんと薄っぺらい名言だと思っていたが、きっとそれらは本当のことなんだと今では思う。成功体験のために必要な失敗も、人間として成長するための失敗も、おそらくとてもありふれたものなのだ。その必要経費をドブに捨てるか堆肥にするかは自分次第。

 

終わりに。

学生を騙しまくってるマルチみたいな締めになってしまいましたが、ただの学生が研究室に落選した結果、留学することにしたってだけの話です。留学のこと、大学のことをこれからも書いていきたいのでどうかよろしくお願いします。